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西洋占星術と精神世界の冒険

悟後の修行

なんの気なしに前回の投稿(2022年1月)を開いてしまったので、久しぶりに書く。前回は「次回は『悟後の修行』について何か書く(かもしれない)」と結んでいたので、そのことについて少しだけ。

 

ひとことに悟後の修行といってもいくつか違うものが含まれそうだ。まずは、はっきりと非二元的認識に至るのが「小悟」だとして、その気づきは何度も失われるので、繰り返し気づくことでより徹底する。とはいえ、修行というほどではない、非二元的認識は基本的に快いものなので自然にそれは繰り返されるだろう。そして、非二元的認識が自然なものとなっていき、「私」という中心のようなものが本当にないのだと徹底して理解する。これが大悟である。

 

大悟を達成する主体は魂のような何かではなく、主体が存在しないということを、思考や感情や身体が本当に納得するだけの話だと思う。

 

そのように、悟後の修行というときに、小悟から大悟へ向かうプロセスと指すというのがまずひとつ。たぶん、禅などでもそういう感じなのではないか?

 

もうひとつは、小悟の後はもちろん、大悟の後でさえ必要な修行だ。これまで人生における万事が紐付けられ関連づけられてきた「私」という主体が存在しないと気づくと、混乱して心身を病んだり、希死念慮に苛まれたり、社会不適合になったりという事態が起きることがある。なので、それを避けるための修行が必要となる。

 

非二元的認識へ至ることを指向する伝統宗教の中には安全策として、小悟の前からそうした修行に取り組ませるものもある。チベット仏教の加行などはその最たるものだろう。現代社会ではもっと別のアプローチが良さそうだが、ここでは詳細は触れない。

 

いつになるかわからないが、このへんの話をまとめてわかりやすく、対話形式のお話にでもまとめたい。Kindleで出すかもしれないし、noteで出すかもしれない。あるいは出さないかも。有言不実行なことが多々あるので明言は避けたい。

修行すれば悟れるか

非二元的な物言い(最近は“非二元しぐさ”と呼んでる)では修行は必要ないと言われる。「修行」なるものを、「悟りなる状態を訓練し磨き上げること」と定義するなら、それは正しい。非二元的な認識を得るだけなら、想像や常識、思い込みを捨て、ありのままに見ればよい。

 

たとえば、風が木を揺らしているのを見たときに、ほとんどの人は「風が木を揺らしている」と認識するが、風は見えないのでそこには想像や常識が入り込んでいる。そこで、ありのままに見たなら「木が揺れている」という認識になる。

 

興味深いことに、非二元的な認識を得た2人の人がいずれも、「木を見たときに、自ずと揺れているように見えた」と述べている。これはたまたま木の話だが、木を旗に置き換えるとそのまま禅語の「非風非幡 仁者心動」(風が動いているのでも、旗が動いているのでもない、その者の心が動いているのだ)になる。

 

ありのままに見れば、それがそのまま非二元的な認識となる。そこで、ありのままに「これまで私と思ってきた何か」を見れば、それが、明滅する心的なプロセスであり、確かな実体を持つものではないことがわかる。そこをはっきり見ることを小悟と呼んでいいだろう。

 

ありのままを見ることに訓練も何もないので非二元しぐさでは「修行不要」となるわけだが、想像や常識を外してモノを見る訓練であれば可能だし有効だろう。禅問答などもその一つだし、ダイレクトパスでは五感そのものでそれをやる。

 

非二元論者の多くが言うように、瞑想状態や非二元的な認識を永続的なものにしようという努力はおそらく実を結ばない。それは、求める状態とそれを求める側の行為者の二元的な分離が強調されてしまうからだ。

 

それよりは、「求める状態ではないときの認識」を、ありのままによく観察し、そこに想像や常識のフィルターが入り込んでしまっていることに気づいたほうがよい。

 

なので、「修行すれば悟れるか」という問いがあるなら、「悟りを追求する修行では悟れないが、悟りでないものを追求する修行では悟れる(かもしれない)」というのが最適解になるだろうか。

 

次回は「悟後の修行」について何か書く(かもしれない)。

例えるなら、霊的身体論から超流動ヘリウムが流れ出してきたような

気楽に書こうと思ったテーマだったが、案の定、オオゴトになってきた。例えるなら、霊的身体論から超流動ヘリウムが流れ出してきたような。

fr-kamiya.hateblo.jp

というわけで、続きを書こうとしたが話が拡がりすぎて収集がなかなかつかない。とりあえず、現時点で(頭の中で)トピックとなっているところを箇条書きにしてお茶を濁すことにする。

こうなってくると、いわゆる「霊的身体論」の話でもなくなってくるなー。

霊的身体論の考察③ 虚軸としての「奥行き」とエーテル空間

さて、前の2つの記事では、触覚でとらえた身体イメージとしてのエーテル体について語ってきたが、触覚とは基本的には「面」の感覚である。
 
 
感覚受容器を「点」と考えるなら、その集合としての「面」が触覚では感覚されている。もちろん数学的に厳密な意味での「点」は面積を持たないので、それを集めても「面」にはならないが、感覚受容器そのものは数学的な意味での「点」ではないし、いずれにせよ、意識の直観的認識としては、触覚=「面」の感覚といっていい。
 
そうなると、前回の記事で「にょーん」と表現した「立体」として感じられる触覚とは、その「面」から想像によって組み立てられたものということになる。
 
また、エーテル体という話の以前に、そもそも、触覚そのものは立体を認識することができない。
 
たとえば、立方体に触れたとき、手に感じられるその角ばった感覚や平面の大きさなどから、立方体を想像しているのであって(イメージされた3次元空間の中でヴァーチャルに立方体を描画しているといってもいい)、触覚そのものが直接立体を認識することはない。
 
その意味で、空間的(つまり3次元的)な広がりを持つエーテル体の感覚、あるいは、体外に感じられるそのような広がりもまた、触覚をもとに想像されたものだといえる。
 
シュタイナーの人智学の立場から、ジョージ・アダムスという人が書いた『エーテル空間』(耕文舎叢書)という本には、自然を霊的に認識するには完成された空間の呪縛から解き放たれなければならないという旨が記されている(*)。
 
その呪縛とは何かというと、一番の呪縛は「面」の感覚から3次元空間を生じさせている「奥行き(という方向)」ではないか。
 
ヌーソロジーをわかりやすく解説してくれる川瀬統心氏の提唱する「魚眼レンズワーク」では、空間の「奥行き」の消失した平らなモノの見方を目標とするが、川瀬氏によると、その状態こそが「自然な見方、ありのままの見方」であるという。
 
 
実際、小さな子どもの頃、私たちはこのような見方をしていたはずで、「奥行き」を理解できなかったからこそ、遠くに移動する人や車が小さくなっていくことにおどろきと面白さを感じたのだ(ほとんどの人はこの感覚を忘れていると思うけれど)。
 
これに関連して、生まれながらに目の見えない人が開眼手術によって目が見えるようになってからも、訓練を積むことなしには立体の認識ができず、目に映るものがすべて目という「面」に押し付けられているように感じられるという「モリヌークス問題」の話も興味深い。
 
 
この「モリヌークス問題」からも、立体の認識を成り立たせている「奥行き」は後天的に学習したものだといえそうである。これは視覚の問題だが、おそらく触覚でも同じだろう。視覚も触覚もそれそのものは「面」の感覚なのだ。
 
視覚は本来、網膜という「面」の感覚だからこそ、モリヌークス問題の被験者は見えるものが目に押し付けられているように感じた。つまり、その視野には空間の「奥行き」はなく、その「奥行き」とは後天的に学習したものであることがここには示されている。
 
「奥行き」から解放された意識は、眼前の風景に何ともいえない「生命感」を覚えることになるのだが、それは、存在するものが持つ「質」ではないか。
 
哲学者のジョージ・バークリーやアンリ・ベルクソンが、存在するものを物質的な広がり、つまり「量」として把握されるもの(デカルトはこれを「延長」と呼んだ)ではなく、「質」の感覚としてとらえることを主張したのは、まさにそこだ。
 
存在するものの「質」に意識を向けるとき、私たちはそこに「生命感」を見いだす。小さな子どもの頃、私たちはそれを感じていたはずだし、大人になってからも一部の人、たとえば芸術家やいわゆる「悟った人」などはそれを感じている。
 
ゴッホの描く渦巻く雲や星などはそのいい例だろう。通常なら「背景」となるはずの、はるか彼方にある雲や星が(「奥行き」という空間の広がりを無視して)手前の糸杉と同じか、それ以上の存在感と生命感を放って眼前に迫ってくるのは、彼が「量」ではなく「質」として光景をとらえていたからではないか。
 

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エーテル体の感覚やエーテル空間の認識は、「面」で感じられたものに加え、「量」をとらえるのに必要な「奥行き」が想像されたときに失われ、その奥行きの代わりに「質」をそこに見いだすときに「生命感」を伴って立ち現れる。
 
なお、ジョージ・アダムスは、エーテル空間は反空間であると述べているが、これについてこう考えてみた。
 
実際に直接感じられるのが「面」だけであり、「奥行き」としての空間の広がりが想像だとすれば、その「奥行き」を、実数による軸と虚数による軸によって構成される複素平面でいうところの「虚軸」方向と表現してもいいだろう。つまり、「奥行き」を実軸ではなく虚軸であると見抜いたときに、エーテル空間の認識が立ち現れてくるという意味で、通常の空間とは異なる反空間にあたるということを言っているのではないか。
 
しかしながら、通常の空間認識は、本来は虚軸であるべき「奥行き」方向を実軸と見なすことで成立しているのだから、こちらのほうを反空間と呼んだほうがいいだろう。まあ、これは表現上どちらが自然かという話なので、ここではジョージ・アダムスの用語法に従うこととする。
 
ここで誤解のないよう言っておきたいが、私はバークリーのように、3次元空間や物質が存在しないということを主張したいのではない(バークリーはそこまで言うのだ)。そうではなく、実際に感じている「面」の認識に「奥行き」を加えて3次元空間を想像してしまうことで、その想像された空間の中に、「面」で感じていたはずの、生き生きとした生命感を閉じ込めてしまっているのではないか、ということを言いたいのだ。
 
そしてそれは唯物論にもつながってくる。つまり、3次元的な空間の広がりの中に存在する3次元的な広がりを持つモノ(客体)として、自分自身やそのほかの事物を見なしてしまうことで、生命感に欠けた寒々しい世界像としての唯物論に陥ってしまうのではないか。
 
その意味で、「にょーん」と体の周りをただようエーテルの触手を感じてみる行為は、3次元的な広がりを持つモノとしての身体に生命感を見いだしていくことにつながるといえるだろう。だが、それを空間的な広がりを持つものとして感じることは、感覚そのものの認識ではなく、それを3次元的空間における広がりとして描画しており、せっかくの生命感をかなりの部分まで削いでしまう。
 
いわゆるスピリチュアルなエネルギーワークの限界がここにあるように思える。つまり、3次元空間の呪縛から解き放たれ切っていないのだ。
 
では、3次元的な空間に投影することなく、感覚された生命感をそのものとして認識するにはどうすればいいか。つまり、「エーテル空間」を直にとらえるにはどうすればいいのか。
 
それについては次回考えてみたい。
 
◆余談
日本神話でスサノオヤマタノオロチを斬った十拳剣(トツカノツルギ)は、別名・天羽々斬剣(アメノハバキリノツルギ)という。これを、「幅」を斬る剣と解するなら、「幅」を斬ると現れるのは「奥行き」ということになる(これ自体は中山康直氏と澤野大樹氏の説)。しかし、量としての「幅」を斬るのだから、この「奥行き」は3次元空間を構成する実軸としての奥行きではなく、複素平面(反空間)を構成する虚軸としての奥行、つまり、エーテル的な生命感に関係するものと考えるほうがいいだろう。
 
その八岐大蛇の体内から出てきたのが、三種の神器となっている天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)だが、エーテルが雲のようなモヤモヤとした何かだとすれば、これを視覚化されたエーテルの剣と考えてもよい。
 
そうなると、八岐大蛇とは「幅」の化身であり、言うなれば唯物論に直結するものと考えていいだろう。そして狭義の唯物論共産主義のことだが、興味深いのは、かの出口王仁三郎が「八岐大蛇はロシアで発生」と述べていることだ。
 
とはいえ、これを現存する(?)三種の神器としての剣に直結させるつもりはない。むしろ、普遍的な「Swords」の象意を考えるヒントにしたいところ。
 
(*)実はこの本は持っていない。Amazonで中古が売っているのだが高いので様子見。この本については、ヌーソロジーの半田広宣氏が言及したことで知り、内容については下記のpdfの読書記録を参考にした。余談だが、ネット歴の長い人はpdfの置かれているドメインが懐かしく感じられるだろう。

霊的身体論の考察② エーテル体は「にょーん」というくらいユルい何か

触覚でとらえた身体イメージとしてのエーテル体(下の前記事参照)を感じるのは誰でもできる。というより、それは触覚なのだから感じて当然だ。
 
目を閉じて体の中や皮ふの周囲を感じてみると、もやもやとした感じや流れている感じ、あるいは満ちている感じや欠乏している感じなどが全身にわたって感じられる。これをエーテル体と考えればよい。
 
慣れてくると、このエーテル体は餅のように「にょーん」と、体の周囲に触手を伸ばしているようにも感じられる。その触手は意識を向けたところへ向かい、特に関心や興味を抱いたものにはしっかり接続されるようだ。
 
そんな遠くまで触覚が機能するとは思えないので、これは意識の状態が触覚に投影されたものだろう。エーテルが見えるという人なら、視覚にも投影されることになる。
 
いずれにせよ、この「にょーん」もまた誰にでも感じられると思う。「エーテル知覚の開発」みたいに肩に力の入った感じではなく、遊び感覚でやればいい。
 
「にょーん」は餅のようなものなので、そちらへ引き寄せられるような体感が伴うかもしれない。好きな異性のそばにいくと、視線や意識だけでなく、体まで磁力のようなものでぐーっと引きつけられる感じはしないだろうか。そのとき、体の周りの空気の流れのようなもの(エーテル)を感じると、その対象へ「にょーん」と伸びていることが感じられるだろう。
 
松村潔さんのオーラ本に、そのエーテルを相手に引っ掛けてグッと引っ張ることで、相手の気持ちを振り向かせられるといった内容があったが、これはある種の魔術といっていい。実際にそれが可能かは、ここでは検討しないが、いずれにせよそういう「にょーん」を観察するのは面白い。
 
「にょーん」は目の前にある事物だけでなく、抽象的なイメージや記憶にも触手が伸ばされるので、何もない空間に「にょーん」が複数伸びているといった場合、気になる物事がいくつか保留されていたりといったことがある。
 
その場合、過去の物事が後方か右側に、未来の物事が前方か左側に配置されると考えられるが、半田広宣さんのヌーソロジーでは前後が逆なので、そういうパターンもあるかもしれない。老子は後ろ向きに牛に乗った(つまりすでに経過した道=未来が前方となる)というから、これはヌーソロジーと同じだ。
 
いずれにせよ、そのような「にょーん」がいくつも伸びた状態では集中力が保てないので、仕事や勉強や運転の時などには、意識的に「にょーん」を体の中に引っ込めたほうがいいだろう。ただし、創造性と関係することについては、こうした「にょーん」によって、さまざまな印象につながっていたりするので、なんでもかんでも引っ込めたほうがいいというわけでもない。
 
これと似たようなことは、さまざまなヒーリング法でもいわれているが、「にょーん」というくらいにユルい感じで遊んでみてもいいのではないか。
 
なお、何らかの症状のある箇所から「にょーん」が出ている場合、そのつながった先が原因になっていることもある。この原稿の下書きを書いている時点で私の腰は大変痛んでいて、そのあたりからはたくさんの「にょーん」が後方の空間に向かって伸びている。ちょうど題材としていいので、それぞれをたぐってみてもいいのだが、痛いので面倒(しかし、文章は書けるという)。
 
次の日の清書の段階では痛みはだいぶ軽くなっていて、「にょーん」も感じられない。やりかけの物事の優先順位について迷っていたので、それが、一晩寝て整理されたということだろうか。
 
続きもまたエーテル体、かな。