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西洋占星術と精神世界の冒険

霊的身体論の考察③ 虚軸としての「奥行き」とエーテル空間

さて、前の2つの記事では、触覚でとらえた身体イメージとしてのエーテル体について語ってきたが、触覚とは基本的には「面」の感覚である。
 
 
感覚受容器を「点」と考えるなら、その集合としての「面」が触覚では感覚されている。もちろん数学的に厳密な意味での「点」は面積を持たないので、それを集めても「面」にはならないが、感覚受容器そのものは数学的な意味での「点」ではないし、いずれにせよ、意識の直観的認識としては、触覚=「面」の感覚といっていい。
 
そうなると、前回の記事で「にょーん」と表現した「立体」として感じられる触覚とは、その「面」から想像によって組み立てられたものということになる。
 
また、エーテル体という話の以前に、そもそも、触覚そのものは立体を認識することができない。
 
たとえば、立方体に触れたとき、手に感じられるその角ばった感覚や平面の大きさなどから、立方体を想像しているのであって(イメージされた3次元空間の中でヴァーチャルに立方体を描画しているといってもいい)、触覚そのものが直接立体を認識することはない。
 
その意味で、空間的(つまり3次元的)な広がりを持つエーテル体の感覚、あるいは、体外に感じられるそのような広がりもまた、触覚をもとに想像されたものだといえる。
 
シュタイナーの人智学の立場から、ジョージ・アダムスという人が書いた『エーテル空間』(耕文舎叢書)という本には、自然を霊的に認識するには完成された空間の呪縛から解き放たれなければならないという旨が記されている(*)。
 
その呪縛とは何かというと、一番の呪縛は「面」の感覚から3次元空間を生じさせている「奥行き(という方向)」ではないか。
 
ヌーソロジーをわかりやすく解説してくれる川瀬統心氏の提唱する「魚眼レンズワーク」では、空間の「奥行き」の消失した平らなモノの見方を目標とするが、川瀬氏によると、その状態こそが「自然な見方、ありのままの見方」であるという。
 
 
実際、小さな子どもの頃、私たちはこのような見方をしていたはずで、「奥行き」を理解できなかったからこそ、遠くに移動する人や車が小さくなっていくことにおどろきと面白さを感じたのだ(ほとんどの人はこの感覚を忘れていると思うけれど)。
 
これに関連して、生まれながらに目の見えない人が開眼手術によって目が見えるようになってからも、訓練を積むことなしには立体の認識ができず、目に映るものがすべて目という「面」に押し付けられているように感じられるという「モリヌークス問題」の話も興味深い。
 
 
この「モリヌークス問題」からも、立体の認識を成り立たせている「奥行き」は後天的に学習したものだといえそうである。これは視覚の問題だが、おそらく触覚でも同じだろう。視覚も触覚もそれそのものは「面」の感覚なのだ。
 
視覚は本来、網膜という「面」の感覚だからこそ、モリヌークス問題の被験者は見えるものが目に押し付けられているように感じた。つまり、その視野には空間の「奥行き」はなく、その「奥行き」とは後天的に学習したものであることがここには示されている。
 
「奥行き」から解放された意識は、眼前の風景に何ともいえない「生命感」を覚えることになるのだが、それは、存在するものが持つ「質」ではないか。
 
哲学者のジョージ・バークリーやアンリ・ベルクソンが、存在するものを物質的な広がり、つまり「量」として把握されるもの(デカルトはこれを「延長」と呼んだ)ではなく、「質」の感覚としてとらえることを主張したのは、まさにそこだ。
 
存在するものの「質」に意識を向けるとき、私たちはそこに「生命感」を見いだす。小さな子どもの頃、私たちはそれを感じていたはずだし、大人になってからも一部の人、たとえば芸術家やいわゆる「悟った人」などはそれを感じている。
 
ゴッホの描く渦巻く雲や星などはそのいい例だろう。通常なら「背景」となるはずの、はるか彼方にある雲や星が(「奥行き」という空間の広がりを無視して)手前の糸杉と同じか、それ以上の存在感と生命感を放って眼前に迫ってくるのは、彼が「量」ではなく「質」として光景をとらえていたからではないか。
 

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エーテル体の感覚やエーテル空間の認識は、「面」で感じられたものに加え、「量」をとらえるのに必要な「奥行き」が想像されたときに失われ、その奥行きの代わりに「質」をそこに見いだすときに「生命感」を伴って立ち現れる。
 
なお、ジョージ・アダムスは、エーテル空間は反空間であると述べているが、これについてこう考えてみた。
 
実際に直接感じられるのが「面」だけであり、「奥行き」としての空間の広がりが想像だとすれば、その「奥行き」を、実数による軸と虚数による軸によって構成される複素平面でいうところの「虚軸」方向と表現してもいいだろう。つまり、「奥行き」を実軸ではなく虚軸であると見抜いたときに、エーテル空間の認識が立ち現れてくるという意味で、通常の空間とは異なる反空間にあたるということを言っているのではないか。
 
しかしながら、通常の空間認識は、本来は虚軸であるべき「奥行き」方向を実軸と見なすことで成立しているのだから、こちらのほうを反空間と呼んだほうがいいだろう。まあ、これは表現上どちらが自然かという話なので、ここではジョージ・アダムスの用語法に従うこととする。
 
ここで誤解のないよう言っておきたいが、私はバークリーのように、3次元空間や物質が存在しないということを主張したいのではない(バークリーはそこまで言うのだ)。そうではなく、実際に感じている「面」の認識に「奥行き」を加えて3次元空間を想像してしまうことで、その想像された空間の中に、「面」で感じていたはずの、生き生きとした生命感を閉じ込めてしまっているのではないか、ということを言いたいのだ。
 
そしてそれは唯物論にもつながってくる。つまり、3次元的な空間の広がりの中に存在する3次元的な広がりを持つモノ(客体)として、自分自身やそのほかの事物を見なしてしまうことで、生命感に欠けた寒々しい世界像としての唯物論に陥ってしまうのではないか。
 
その意味で、「にょーん」と体の周りをただようエーテルの触手を感じてみる行為は、3次元的な広がりを持つモノとしての身体に生命感を見いだしていくことにつながるといえるだろう。だが、それを空間的な広がりを持つものとして感じることは、感覚そのものの認識ではなく、それを3次元的空間における広がりとして描画しており、せっかくの生命感をかなりの部分まで削いでしまう。
 
いわゆるスピリチュアルなエネルギーワークの限界がここにあるように思える。つまり、3次元空間の呪縛から解き放たれ切っていないのだ。
 
では、3次元的な空間に投影することなく、感覚された生命感をそのものとして認識するにはどうすればいいか。つまり、「エーテル空間」を直にとらえるにはどうすればいいのか。
 
それについては次回考えてみたい。
 
◆余談
日本神話でスサノオヤマタノオロチを斬った十拳剣(トツカノツルギ)は、別名・天羽々斬剣(アメノハバキリノツルギ)という。これを、「幅」を斬る剣と解するなら、「幅」を斬ると現れるのは「奥行き」ということになる(これ自体は中山康直氏と澤野大樹氏の説)。しかし、量としての「幅」を斬るのだから、この「奥行き」は3次元空間を構成する実軸としての奥行きではなく、複素平面(反空間)を構成する虚軸としての奥行、つまり、エーテル的な生命感に関係するものと考えるほうがいいだろう。
 
その八岐大蛇の体内から出てきたのが、三種の神器となっている天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)だが、エーテルが雲のようなモヤモヤとした何かだとすれば、これを視覚化されたエーテルの剣と考えてもよい。
 
そうなると、八岐大蛇とは「幅」の化身であり、言うなれば唯物論に直結するものと考えていいだろう。そして狭義の唯物論共産主義のことだが、興味深いのは、かの出口王仁三郎が「八岐大蛇はロシアで発生」と述べていることだ。
 
とはいえ、これを現存する(?)三種の神器としての剣に直結させるつもりはない。むしろ、普遍的な「Swords」の象意を考えるヒントにしたいところ。
 
(*)実はこの本は持っていない。Amazonで中古が売っているのだが高いので様子見。この本については、ヌーソロジーの半田広宣氏が言及したことで知り、内容については下記のpdfの読書記録を参考にした。余談だが、ネット歴の長い人はpdfの置かれているドメインが懐かしく感じられるだろう。