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西洋占星術と精神世界の冒険

修行すれば悟れるか

非二元的な物言い(最近は“非二元しぐさ”と呼んでる)では修行は必要ないと言われる。「修行」なるものを、「悟りなる状態を訓練し磨き上げること」と定義するなら、それは正しい。非二元的な認識を得るだけなら、想像や常識、思い込みを捨て、ありのままに見ればよい。

 

たとえば、風が木を揺らしているのを見たときに、ほとんどの人は「風が木を揺らしている」と認識するが、風は見えないのでそこには想像や常識が入り込んでいる。そこで、ありのままに見たなら「木が揺れている」という認識になる。

 

興味深いことに、非二元的な認識を得た2人の人がいずれも、「木を見たときに、自ずと揺れているように見えた」と述べている。これはたまたま木の話だが、木を旗に置き換えるとそのまま禅語の「非風非幡 仁者心動」(風が動いているのでも、旗が動いているのでもない、その者の心が動いているのだ)になる。

 

ありのままに見れば、それがそのまま非二元的な認識となる。そこで、ありのままに「これまで私と思ってきた何か」を見れば、それが、明滅する心的なプロセスであり、確かな実体を持つものではないことがわかる。そこをはっきり見ることを小悟と呼んでいいだろう。

 

ありのままを見ることに訓練も何もないので非二元しぐさでは「修行不要」となるわけだが、想像や常識を外してモノを見る訓練であれば可能だし有効だろう。禅問答などもその一つだし、ダイレクトパスでは五感そのものでそれをやる。

 

非二元論者の多くが言うように、瞑想状態や非二元的な認識を永続的なものにしようという努力はおそらく実を結ばない。それは、求める状態とそれを求める側の行為者の二元的な分離が強調されてしまうからだ。

 

それよりは、「求める状態ではないときの認識」を、ありのままによく観察し、そこに想像や常識のフィルターが入り込んでしまっていることに気づいたほうがよい。

 

なので、「修行すれば悟れるか」という問いがあるなら、「悟りを追求する修行では悟れないが、悟りでないものを追求する修行では悟れる(かもしれない)」というのが最適解になるだろうか。

 

次回は「悟後の修行」について何か書く(かもしれない)。